先日書いた記事「最近思うこと-アスペルガー症候群という説明書-」や、
youtubeにアップした動画の影響か、
近頃「どうして公表するのか?」という批判的な言葉を頂くことも増えた。
こういうハッキリした意思を放つ行動は、
ハッキリとした反応を周りにおよぼす。
前に、ストリートの投げ銭についてのエントリを書いたときも
同じような反応だった。
私をきちんと見ているとは思えない人からの批判が多いのは疑問だけれど。
アスペルガーのことにしろ、投げ銭のことにしろ、
私が声を上げる理由のひとつは
「誰かが声をあげなければ!」
という「使命感」だ。
現在、発達障害への理解がスローペースで進む中、
まだまだ間違った理解のために苦しむ当事者もたくさんいることを本やネット、そして周りの人たちの話から感じる。
もちろん、私自身も感じている。
誰かが声をあげなければ人たちの認識は変わらない
声をあげる人たちが多ければ多いほど
間違った情報が淘汰され、理解が進む。そして、社会が変わっていくと、私は思う。
だって、「常識」とか「流行」とかも
そもそも誰かが声をあげなければ始まらないものだから。
時代の切っ先になる人は周りの人に
奇妙な人あつかいされやすい。
でも幸い私はずっと奇妙な人あつかいされてきた人間。
そんなことには慣れている。
私はただ、自分が納得のいくように自分の人生を生きたいだけ。
いわゆるふつうの人ようにいろんなことができたらいいなぁと思う反面、
それじゃぁつまらない、という心の底は変えられない。
あわせっぱなしじゃ息が詰まる!
あわせなくたって一人一人が尊重されて
自由に生きられる世界になったら素晴らしいじゃない!
人はひとりひとり、ちがうんだから☆
私が生まれながら持っていた
謎の部分・うまくできない部分。
私自身も親にも、その正体はわからず、苦悶していた。
しかし、大人になり、
アスペルガーという「自分をわかるヒント」を授かったとき、
同時に、「理解」がいかに人の心を救うのかということを
身をもって知った。
そこで私は、今回制作している作品で
「理解」を訴えようと決めた。
今の私があるのは、アスペルガーという「ヒント」に出会ったおかげ。
であれば、私はそれを隠す必要も、恥じる必要もない。
これが公表する二つ目の理由だ。
アスペルガーは私にとんでもない強みも与えてくれている。
それは、「聴覚過敏」。
おかげで絶対音感を身につけられたし、
音楽という自分が生きていくための大切な武器を見つけた。
私が人生を晒して歌う以上、
アスペルガー的要素は歌からにじみ出る。
私の歌世界の理解の一助ともなるこの「ヒント」をきっかけに、
当事者でない人たちにも
「ひとりひとりを理解することの大切さ」を考えてもらえたら、
そこには、きっと
優しい、優しい世界が開けるはず。
私の生きる意味は、そこだと直感しているんです。
以上が、私がアスペルガー症候群であることを公表している理由です。
本当はもっと語りたいくらいだけど・・・。(^^;
・・・わかるかなぁ?
わかりにくいとこは説明するからコメントしてね^^
youtubeにアップした動画の影響か、
近頃「どうして公表するのか?」という批判的な言葉を頂くことも増えた。
こういうハッキリした意思を放つ行動は、
ハッキリとした反応を周りにおよぼす。
前に、ストリートの投げ銭についてのエントリを書いたときも
同じような反応だった。
私をきちんと見ているとは思えない人からの批判が多いのは疑問だけれど。
アスペルガーのことにしろ、投げ銭のことにしろ、
私が声を上げる理由のひとつは
「誰かが声をあげなければ!」
という「使命感」だ。
現在、発達障害への理解がスローペースで進む中、
まだまだ間違った理解のために苦しむ当事者もたくさんいることを本やネット、そして周りの人たちの話から感じる。
もちろん、私自身も感じている。
誰かが声をあげなければ人たちの認識は変わらない
声をあげる人たちが多ければ多いほど
間違った情報が淘汰され、理解が進む。そして、社会が変わっていくと、私は思う。
だって、「常識」とか「流行」とかも
そもそも誰かが声をあげなければ始まらないものだから。
時代の切っ先になる人は周りの人に
奇妙な人あつかいされやすい。
でも幸い私はずっと奇妙な人あつかいされてきた人間。
そんなことには慣れている。
私はただ、自分が納得のいくように自分の人生を生きたいだけ。
いわゆるふつうの人ようにいろんなことができたらいいなぁと思う反面、
それじゃぁつまらない、という心の底は変えられない。
あわせっぱなしじゃ息が詰まる!
あわせなくたって一人一人が尊重されて
自由に生きられる世界になったら素晴らしいじゃない!
人はひとりひとり、ちがうんだから☆
私が生まれながら持っていた
謎の部分・うまくできない部分。
私自身も親にも、その正体はわからず、苦悶していた。
しかし、大人になり、
アスペルガーという「自分をわかるヒント」を授かったとき、
同時に、「理解」がいかに人の心を救うのかということを
身をもって知った。
そこで私は、今回制作している作品で
「理解」を訴えようと決めた。
今の私があるのは、アスペルガーという「ヒント」に出会ったおかげ。
であれば、私はそれを隠す必要も、恥じる必要もない。
これが公表する二つ目の理由だ。
アスペルガーは私にとんでもない強みも与えてくれている。
それは、「聴覚過敏」。
おかげで絶対音感を身につけられたし、
音楽という自分が生きていくための大切な武器を見つけた。
私が人生を晒して歌う以上、
アスペルガー的要素は歌からにじみ出る。
私の歌世界の理解の一助ともなるこの「ヒント」をきっかけに、
当事者でない人たちにも
「ひとりひとりを理解することの大切さ」を考えてもらえたら、
そこには、きっと
優しい、優しい世界が開けるはず。
私の生きる意味は、そこだと直感しているんです。
以上が、私がアスペルガー症候群であることを公表している理由です。
本当はもっと語りたいくらいだけど・・・。(^^;
・・・わかるかなぁ?
わかりにくいとこは説明するからコメントしてね^^
コメント
コメント一覧 (8)
では、また。
私も、数年前 世話になった先輩の奥様が 自閉症になり 先輩と私 友人で 頑張りましたが、上手く 行きませんでした。ただ、苦しんでいる人には、理解してくれる人と支えてくれる人 二人以上が 必要だと その時 私は、学びました。医師で無い 私達が 家族なり 友人なりが 苦しい病気に 悩んで居る時 この様な 形で 頑張っている人が居ると言う事は、理解してくれる人が要ると言う事で、良い事だと思います。批判する人は、最初から コメントも しなければ 良いと思う。
批判の言葉で 苦しんでいる人が もっと、苦しむのだから いじめと同じです。病気を直すと言う事は
病気を理解する事から 始まります。批判の方、病気を 理解して上げて下さい。ひとみさん 頑張って下さい。
理解をありがとうございます!
うれしいです。
私自身にも、周りの全ての人にも、
正しい理解が広がるよう私は等身大でやってきます。
これからも応援よろしくお願いします!
自閉症や発達障害って、生まれつきのものなので、その方も突然なったわけではなくて生まれつきもっていたと思われます。あるいは数年前のは、自閉症の二次障害が何か起こったのかな?
いずれにしても、理解すること、支えることはとても大変です。
当事者が語らなければ、何に困っているかわからないことも多かったでしょう。
現在の私の周りには幸い、豊かな「理解」があります。
みんなそれぞれの立場から私を気にかけ、助けてくれます。
ありがたいことです。
だからこそ、他の人たちにも正しい理解が訪れるよう願うのです。
そして、支えてくれるみんなに、(私には歌しかないから)よい歌を歌って
お返しできたら、と思うのです。
極真空手さんも、今後とも応援よろしくお願いいたします。
ありがとう(T▽T)
ぬいぐるみ 着うたフル いれたよ。
旧ハンドルネームはあべさとえさんつながりで知り合った人のところで使い続けているんですが、ここでは新ハンドルネームが完全に定着し、実態に合わなくなったからです。
さて、これは社会科(しかも政治・経済)の教員としてコメントせずにはいられませんね。
障碍(障害とも書きますが、このような脈絡ではこちらの漢字を使うのが私の流儀です)を持つ人も健常な人と同じように暮らしていける社会を作ろうとする理念を指して「ノーマライゼーション」と言います。
その辺までは高校の教科書や資料集などにも書いてあるんですが、ここでいう障碍には発達障碍は考えにすら入れられていないのが現状です。
一定規模の企業になると障碍者を一定割合雇用することが義務付けられていますが、発達障碍者はそもそもこの対象になっておらず、それどころか面接試験の段階で企業などから事実上門前払いされている例がかなりあると考えられます。
発達障碍者も含めて、誰もが人間らしく暮らしていける社会となって初めてノーマライゼーションが現実のものになっていると言えるのではないか……。
というような話を、最近の授業で生徒に向けて熱く語ったような次第です。
うん。熱いコメントありがとう!
社会が一番目指すべきは、
平等に理解が与えられる社会だと思う。
当事者は、「定型さんは。。。」なんて言ったりすることもあるけど
一番理想は、定型さんもひとりひとりわかられる社会だと思うんだよね。
発達障害があるなし、かかわらず、
理解されずに苦しむ人たちはたくさんいるしね。
見方を変えれば、発達障害の人たちは、定型の方たちをわかろうと努力・研究していると思う。
そんな我々の立場から声をあげるとすれば、
単純に「わかって」ではなく、「相互にわかろうよ」なんだと思うんだよね。